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愛するためには?(ルカ7:44−50)
고요한 2025-07-12 추천 0 댓글 0 조회 25

20250713日曜午前礼拝

聖書:ルカ7:44−50

題目:愛するためには?

賛美:90、298、301

説教:高曜翰 牧師

“それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。 あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。 あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。 すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。 しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。”

‭‭ルカによる福音書‬ ‭7‬:‭44‬-‭50‬ 口語訳‬

1。斎藤宗次郎

 斎藤宗次郎(1877−1968)は岩手県の仏教(曹洞宗)の家系に生まれた愛国者でした。勉強熱心で、東京の高校に進学するため上京しました。15歳の時、内村鑑三が教育勅語の奉読式で最敬礼をしなかったことが報道されると、怒りを覚え、30歳の内村に直接会いに行きました。内村になぜ「天皇陛下を侮辱するようなことをしたのですか?」と問い詰めました。すると内村は「陛下を侮辱したつもりはない。私は神の前に正しくありたいと願って、自分の信仰に従ったのだ」と答えました。斎藤が「あなたは自分が正しいとお思いですか?」と聞き返すと、内村はローマ書3:10を引用し、「義人はひとりもいない」と答えました。そして「私は自分を義人だと思っていない。義なる神に従おうとしているのだ」と付け加えました。それを聞いて斎藤は、「自分が正しい」と思い込んで、他人を裁いていた自分に気づきました。一方で、「自分が正しい」と主張せず、ただ神の前に正しくあろうとする内村の姿に衝撃を受けたのです。これを機に彼は聖書を読み始め、キリスト者として生きるようになりました。

 それから斎藤は苦難の人生を送ることになります。東京で大学を卒業後、英語教師になりましたが、その信仰のためにクビになりました。岩手に帰りましたが、まともな職につくことができず、親には勘当され、人からは石を投げられました。ある時は、近所で火事が起こりましたが、無関係に放水され家が壊れることがもありました。そして9歳となる長女が学校でいじめに会い、お腹を蹴られたことが原因で亡くなってしまいました。

 しかし斎藤は、誰かを憎むのではなく、愛する選択をしました。毎日、牛乳と新聞を配達しながら伝道し、10mごとに祈りました。子供に会うとお菓子をあげ、病気の人をお見舞いし、祈りました。雨の日も風の日も雪の日も続けたのです。ある日、内村鑑三に招かれて東京に引っ越しすることになりました。すると、町長、有力者、先生、生徒、神主、僧侶、 一般人から物乞いまで200人以上の人が駅まで見送りに来ました。友人の宮沢賢治は、キリスト者として生き続ける斎藤の姿に感動し、斎藤を「雨にも負けず」という作品のモデルにした言われています。

 なぜ彼は酷い目にあっても、人々を赦し、彼らに仕えることができたのでしょうか?努力によってできるものではありません。性格がいいからできるものでもありません。その答えが今日の本文にあります。

2。罪の女の赦し

 イエスはパリサイ人シモンの家に招待されました。会堂での聖書朗読や説教の後、食事会を開くのはよくあることでした。ラビを招いて宴会を開き、宗教的な話を聞くことは高潔なこととされていました。その高潔な主人によって、人々はラビのありがたいお話を街道の外でも聞くことができ、また貧しい人たちも宴会の残り物を食べることができました。しかし、シモンはイエスを尊敬していたからではなく、真のメシアかどうかを確認するために招待したのです。なぜならイエスには大食らい、酒飲み、取税人や罪人の仲間といった悪い評判があったからです 。

 宴会の最中に、ある娼婦が家に入ってきました。その女性は、自分の大好きなイエスが冷遇されている事に気付き、涙を流しました。そしてその涙でイエスの足を濡らし、かぶりものを外して、髪をほどき、その髪で足を拭き取りました。当時、夫以外の男性が見ないように、女性が頭に被り物をすることは常識であり、公の場で髪の毛を見せることは不道徳なこととされていました。また、髪は女性のプライドを表し、通常束ねておくものでした。その女性は人の目を気にせず、自分のプライドを降ろして、当時は道路も舗装されておらず靴もサンダルのため、真っ黒に汚れた足をその髪で拭いたのです。服ではなく髪で拭いたのはイエスに対する敬意の表れであり、愛情表現です。その後、頬ではなく足に口づけをし、頭ではなく足に香油を塗ったのも、家庭用のオリーブオイルではなく、わざわざ香油を使ったのも、愛の行いなのです。

 しかし、この女性にされるがままのイエスを見て、シモンは「イエスは預言者ではない」という結論を出しました。なぜなら、罪人に触れると汚れが移るため、触らせることなどしないはずだと考えたからです。その心を見抜いてイエスは金貸しの例えを話し始めました。500デナリの借金を赦された人と、50デナリの借金を赦された人のどちらが、その金貸しを多く愛するかというものです。シモンは、「多く許してもらったほうだと思います」と用心深く回答しました。 しかし、この判断でシモンは自らを裁くことになります。

 招待客に対して、足を洗う水とタオルを用意すること、あいさつの口付けをすること、髪の毛を整える油を用意することは、主人がすべきマナーでした。しかしシモンはそれをしませんでした。表面上は敬意を持っているかのように振る舞っていましたが、実際はイエスを見下し、愛のない行いをしていたのです。一方で女性は、イエスに敬意を表し、人の目を気にせず、愛のある行いをすることができました。

 イエスの「この女は多く愛したから、その多くの罪は赦されている。少しだけ赦された者は、少ししか愛さない。」というのは、どういう意味でしょうか?シモンがイエスを愛さなかったからシモンは赦されない、という意味ではありません。シモンがイエスを愛することができなかったのは、自分がどれだけ赦されているかを気づいていないからだ、という意味です。その女性がイエスを愛することができたのは、自分がいかに罪人であるかを知り、そしてどれだけ赦されているかを知っているからだという意味です。そして、シモンがそれを知ることができないのは、「自分は正しい」という高慢な思いのせいなのです。

 イエスは女性に「あなたの罪は赦されています」と言いました。これは、人々は「罪の女」と言うが、あなたはすでに罪が赦されていますよ、という公式の発表をしているのです。今回の行いで罪が赦されたのではありません。女性はイエスを信じた時点で赦されており、 そして今も、赦された状態が続いているのです。この宣言は、女性が共同体の中で新しい人生を歩むために必要なものでした。イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と付け加えました。これは、行いではなく、信仰による救いを保証するためのものです。女性の愛の行いは、イエスを信じた結果、出てきたものなのです。

  

3。適用

 今日のお話の核心は、愛の行いをしたから赦されたのではなく、赦されたから愛の行いができるということです。女性は信仰によって赦され、すでに神との平和を持っていました。だからこそ、イエスをたくさん愛することができたのです。だからどこに入って行っても愛の行いができるし、平安に帰ることができるのです。

 愛の行いとは奉仕です。奉仕は、神の愛に対する応答として生まれる愛です。だから奉仕が人を救うのではなく、救われたから、奉仕がしたくなるのです。多く愛されたから、愛したくなるのです。ただし、多く奉仕できている人が多く赦されたというわけではありません。できる仕事量は人によって違います。容量以上にしようとするのは傲慢にもなり得ます。奉仕の量で愛を量ることは注意が必要です。

 シモンと女性の差は、神の赦しを体験したかどうかにあります。シモンは自分が赦される必要すら感じていませんでした。だから女性のような奉仕ができなかったのです。シモンのような私たちに必要なのはなんでしょうか?愛する努力でしょうか?そうではなく、どれだけ自分が赦され愛されているか聖書を通して知ることです。斎藤宗次郎のように心から人を愛して生きるか、パリサイ人シモンのように形だけで人を愛して生きるかは、努力や才能によるのではありません。自分が罪人であり、イエスによって赦されていることを知ることで、自然に他人を愛せるようになるのです。

4。まとめ 

 赦せない人がいますか?愛せない人がいますか?愛し方がわかりませんか?まず、自分が人から赦して愛してもらえるような善人でないことを自覚しましょう。「自分は正しい」という考えを一旦脇に置いて、聖書を手に取ってください。そして、そんなどうしようもない自分を赦し、愛してくれるイエスキリストを受け入れましょう。そうすれば私たちは、人を赦し、心から愛する人になることができます。多く赦された事を知る者が多く愛することができます。 

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