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隣人とは誰か?(ルカ10:30−37)
고요한 2025-07-19 추천 0 댓글 0 조회 28

20250720日曜午前礼拝

聖書:ルカ10:30−37

題目:隣人とは誰か?

賛美:91、304、305

説教:高曜翰 牧師

30イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

31するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

32同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

33ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、

34近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

35翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

36この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

37彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

ルカによる福音書10:30−37

1。善きサマリヤ人の法(Good Samaritan Law)

 困っている人を助けようとした人が、その結果として過失があった場合でも法的責任を免除されるという法律です。アメリカやカナダ、オーストラリア導入されており、同じように人助けを積極的に後押しする法律はイギリスや中国でも導入されています。特に中国では、2000年代に、救助した人が救助された人に訴えられる事件が社会問題になりました。そのため、「見て見ぬふり」が社会的に広がり、人助けをする場合は事前に写真を撮って証拠を残す必要がありました。フランスやドイツでは、むしろ助けないと罰せられる法律があります。

 「善きサマリヤ人の法」は、積極的な人助けを推奨する法律であり、名前の由来が聖書の「善きサマリヤ人」の譬え話から来ていることがわかります。しかし、私たちが「善きサマリヤ人」となり、どんな相手でも隣人となって助けましょう、という解釈でこの譬え話を通り過ぎるのは、イエスの目的とずれています。この譬え話を用いてイエスが言いたかったこととは何でしょうか?今日はそれを一緒に見ていきましょう。

2。善きサマリヤ人の比喩

 ある律法学者がイエスを試そうとして、「先生、何をしたら永遠の命を得られますか?」と尋ねました。「永遠の命」とは「神の国に入る資格」のことです。律法学者は、答えを知っていましたが、自分の知識を誇示する目的があります。イエスはそれを見抜いて「律法には何と書いてあって、あなたはどう読みますか?」と逆に質問をしました。律法学者は「主なる神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ、とあります」と律法の核心を正確に答えました。その答えに、イエスは「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば命が得られる」と、口先だけの議論ではなく、行いをもって示すように付け足しました。

 すると律法学者は「では私の隣人とは誰のことですか?」と質問しました。この新しい質問は、イエスの言葉に従うためではなく、自分を正当化するための軌道修正です。当時のユダヤ人にとって「隣人」は律法を守るユダヤ人のことであり、異邦人や罪人は含まれていませんでした。律法学者は自分の都合に合わせて隣人の対象を狭めようとしているのです。そこでイエスは、ひねくれ者の律法学者のためにたとえ話を始めたのです。

 内容は次のとおりです。エルサレムからエリコに下っていく道で、ユダヤ人が強盗に会いました。およそ27k目の道のりですが、標高差は1,000mもある険しい山道です。人々がよく利用する道ですが、強盗多発地帯としても知られていました。そのユダヤ人は、着物を奪われ、半殺しにされました。最初に祭司が通りかかりました。次にレビ人も通りかかりました。二人とも宗教的エリートであり、同じユダヤ人を助けるべき立場にありました。しかし、二人とも自分たちが汚れるのを恐れて、無視して通り過ぎました。

 ところが、あるユダヤ人からとても嫌われているサマリヤ人が通りかかりましたが、その人はユダヤ人を憐れに思い、オリーブ油と葡萄酒と包帯で手当てをしました。それだけでなく、自分の家畜に乗せて宿屋に連れていき、一晩介抱しました。次の日、2デナリを宿屋の主人に渡して、宿屋の主人に介抱を頼み、「もっと費用がかかったら、帰りがけに払います」とまで言いました。イエスは「この3人のうち、誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか?」と尋ねました。律法学者は「その人に慈悲深い行いをした人です」と答えました。嫌いなサマリヤ人を隣人にしたくない気持ちが言葉に表れていますが、隣人がサマリヤ人だと認めざるを得ませんでした。イエスは「あなたも行って同じようにしなさい」と答えました。

 この物語でイエスの言いたかったことは何でしょうか?イエスは道徳的な話をしているのではありません。神の国に入る資格についての答えとしてこの譬え話をしています。ユダヤ人の律法学者に道徳を理解させるためなら、半殺しにあったのはサマリヤ人であり、助けたのはユダヤ人であるべきです。ユダヤ人にいきなりサマリヤ人に感情移入させようとするのは無理があります。この譬え話でまずすべきことは、自分をサマリヤ人の立場において考えるのではなく、半殺しにあったユダヤ人の立場において考えることなのです。

3。物語の核心

 一つ目は、私たちは敵によって救われたと言うことです。私たちこそが強盗に会って何もできずに死にそうなユダヤ人であり、イエスが敵でありながら助けたサマリヤ人なのです。私たちに救いが与えられたのは、私たちがイエスの味方だからではありません。私たちがまだ罪人でイエスの敵であった時から、イエスは私たちに救いを与えたのです。私たちがまだ罪人である時に、イエスは私たちのために死んだのです。当時ユダヤ人はガリラヤからユダヤに来る時、サマリヤを避けてエリコの道を通ります。しかし、このユダヤ人は結局サマリヤ人に出会いました。私たちも同じです。これまでイエスを避けて生きてきましたが、結局イエスから私たちに会いに来たのです。そして救ってくれたのです。一つ目の忘れてはいけないポイントは、私たちが強盗に会って死にそうなユダヤ人であり、敵によって救われた存在であると言うことです。

 二つ目は、私たちは憐れみによって救われたと言うことです。この物語は、私たちが悪魔によって半分死んでいる状態だということ教えています。そして、私たちは、サマリヤ人のような敵の、一方的な介抱によって命を救われた存在なのです。自分では何もできていないのです。律法学者は律法を遵守するという自分の努力によって救われていると勘違いしていました。イエスはこの律法学者に、努力によって達成されるという根本的な間違いを気づかせようとしています。この譬え話でも、律法の代表格である祭司やレビ人は死にゆくユダヤ人を救うおうともしませんでした。救ったのは気の毒に思ったサマリヤ人の一方的な施しです。律法では死にゆく人を救う事ができません。

 また、誰も律法を完全に守ことは不可能です。そして、たとえ律法を完全に守っているとしても、自慢になりません。日本の国内で、日本の法律を守っていることを自慢しても、誰も褒めてくれません。一方で法律を全く犯さず生きることも不可能です。このように、律法学者の律法を守っているという自信満々の態度は根本的に間違っているのです。同じ様に、私たちは人の努力ではなく、一方的な神の憐れみによって救われた存在であるということを、この物語は教えています。

 そして三つ目として、だから自己正当化をしてはいけないと言うことです。律法学者は自分の仲間内だけを助け、異邦人や罪人を無視しながら、自分は神を愛し隣人を愛しているから、神の国に入るのに相応しいと考えていたのです。そして隣人の範囲を狭め、自己正当化をしていたのです。イエスはその間違った考えを打ち砕くために、この譬え話をしたのです。イエスが言いたいのは、仲間だけでなく敵も含めて全ての人が隣人であり、誰も自己正当化する者は神の国に相応しくない言うことです。

 これらの三つの核心を踏まえて、ようやく、善きサマリヤ人のように隣人を憐れむ人になりなさい、と教えることができます。これらの核心を無視すれば、私たちは人を助けても、自分の行いを自慢するようになり、義務的に施す人になってしまいます。なぜなら、少しだけ赦された者は少ししか愛する事ができないからです。少ししかない愛から絞り出した愛は必ず枯渇します。そのため、自然と愛すべき隣人を選別するようになります。また、自分が赦され愛されたのは自分の行いのお陰だと錯覚するようにもなります。しかし、それではこの律法学者のように神の国から遠く離れてしまいます。隣人を愛するとは、自分の好きな人を愛することではなく、イエスがしたように敵をも愛することです。絞り出した愛で愛するのではなく、溢れ出る愛で愛することです。死んで当然の自分が敵であったイエスキリストによって大いに赦され、愛された事を知ることで、私たちはイエスから受け取った溢れる愛で、敵である隣人をも愛する事ができるのです。

4。まとめ

 善きサマリヤ人の譬え話は単なる道徳話ではありません。私たちが死にゆくユダヤ人であり、イエスが憎きサマリヤ人です。私たちはその敵のような存在に救われ、その一方的な憐れみによって救われたのです。だから私たちは自己正当化をせず、謙遜に敵をも愛するすべきなのです。それを受け入れる者が神の国に相応しい存在なのです。 

 その上で、イエスの望みは、私たちにサマリヤ人のように慈悲深い人になることなのです。私たちはこの律法学者のように自分を誇るのではなく、自分が死にゆく憐れな存在だったことを自覚し、イエスが無条件に憐れんだように、私たちも謙遜に人を憐れむ存在になりましょう。
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