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父の元に帰る息子(ルカ15:27−32)
고요한 2025-07-26 추천 0 댓글 0 조회 21

20250727日曜午前礼拝

聖書:ルカ15:27−32

題目:父の元に帰る息子

賛美:93、298、309

説教:高曜翰 牧師

“僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。”

‭‭ルカによる福音書‬ ‭15‬:‭27‬-‭32‬ 口語訳‬

1。父の愛

 通常、親は子供を愛します。自分に似ている子供を愛します。他の子よりもかわいいからではありません。隣の家の子供がいくらかわいいと感じても、自分の子供以上に大切にはできません。たとえ不細工だとしても、自分に似ている自分の子供をかわいいと思い、喜んで世話をすることができるのです。

 神様もそうです。神様は人間を自分の形に創造しました。自分の子供である人間に、自分に似た姿を見るから、愛するのです。神様は人間が自分と似た姿に戻ることを望んでいます。同じものを見て、同じものを喜ぶことを望んでいます。神様は私たちに優れた者になることよりも、悔い改める者になって、共に喜ぶことができる存在になることを望んでいるのです。

2。放蕩息子の譬え話

 あるところに二人の息子がいました。弟は父がまだ生きているのにも関わらず、財産分与を願い出ました。これは父の死を望んでいると思われても仕方がないほど、失礼極まりない要求です。しかし、父は弟の願いを聞き入れ、弟は財産を持って家を出て行きました。そのため、家族の名誉は傷つきました。そして、弟は遊びながら暮らし、貴重な財産を使い果たしてしまいました。

 飢饉が起こり、弟は豚の餌を横取りしなければいけないほどに落ちぶれてしまいました。豚は不浄な動物とされており、通常ユダヤ人が自発的に豚と関わることなどありえません。お金がある時に近寄ってきた友人は全く助けにならず、弟は軽蔑している異邦人のもとで働くしかありませんでした。

 弟はついに家に帰る決心をしました。自分は今にも飢えて死にそうなのに、父の家では食べ物が有り余っている使用人が大勢いることを思い出したからです。父にひどいことをした自分には、もはや息子の資格はないが、せめて使用人として使ってもらおうと考えました。自分のお金と人生を失った結果、ようやく自分の過ちに気づくことができたのです。

 弟が故郷に帰ると、遠くから父が走ってきて、弟の首を抱いて口付けをしました。父は弟を息子として受け入れたのです。当時としては、息子が近づいて尊敬の念を表現してから、父が反応するのが一般的でした。しかし、父は嬉しさの余り、先に反応しました。しかも走って近づいたのです。当時の文化では、走ることは恥ずかしいことであり、尊敬されるような人物が服を捲り上げて走るのは、異常なことでした。父は人の視線を気にせず、弟の帰りを喜んだのです。

 弟は「天と父に対して罪を犯した。もう息子と呼ばれる資格はない」とだけ言いました。走って服装の乱れた父の姿を見て、自分のせいで父が受けた恥と苦痛を考えることができた様子です。会う前に考えていた、使用人にしてくださいと言うセリフが言えないのは、単にお金の問題ではないことに気づいたからです。本当の問題は父との壊れた関係でした。

 父は弟に、最上級の服と指輪、履き物を用意して、家に迎え、子牛の料理を食べさせました。指輪は、自分の息子であることを証明するものです。父は弟のせいで恥ずかしい思いをしたのに、家までの道のりで、息子が恥をかかないように、最上の服と指輪、履き物を与えたのです。そして、死んだ息子が生き返ったと喜び、友人たちを招いて宴会を開きました。弟は何一つ褒められるようなことをしませんでしたが、父の愛する姿を通して、息子と父との関係を回復することができたのです。

 そこに、兄が仕事を終えて帰ってきました。家の中を見てみると、弟が帰ってきており、宴会が開かれているではありませんか!兄は父と弟に激怒し、家に入ろうとしませんでした。帰ってきているにも関わらず、宴会に入ろうとしない兄の姿を見て、父は客を置き去りにして、宴会の外に出てきました。兄をなだめるためです。父は、親子関係が崩壊していることを人々に見せつける兄に、自ら会いに行ったのです。

 兄は不満を爆発させました。自分は何年も正しく仕えたのに、友達と楽しむための子ヤギ1匹もくれなかった。それなのに、遊女と一緒に財産と名誉を食い潰した弟には良い子牛を与えたのはどういうことか?「父」を「あなた」と言い、「弟」を「あなたの息子」と呼んでいることから、父と弟を強く拒絶していることがわかります。

 そんな非常識な態度を見せる兄に対して、父は「息子よ」と優しく呼びかけました。そして、「あなたは私と一緒にいるし、財産はあなたのものだ。しかし弟は死んでいたのに蘇ったのだから、祝うのは当たり前だ」と、自分の気持ちを兄に伝えました。父が弟を認めたように、兄にも弟を認めてほしい父の思いを見ることができます。

3。譬え話の解釈

 よく誤解されがちですが、この物語の中心人物は弟ではありません。兄の方です。それは、この譬え話の対象が群衆ではなく、パリサイ人だからです。背景を確認してみましょう。事件の始まりは、取税人や罪人と食事をしているイエスをパリサイ人たちが批判したことにあります。パリサイ人たちは「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言いました。一緒に食事をすると言うことは、その相手を仲間だと認めることだからです。パリサイ人は、イエスが本物なら、自分たちのように、汚れた罪人から離れるべきだと考えていたからです。しかし、イエスはその反論として、三つの譬え話を挙げました。それが「失われた羊」「失われた銀貨」「失われた息子」です。この譬え話は同じ結論で、神様が何を喜ぶのか、を教えています。そして、物語が父から兄への問いかけのような形で終わっているのは、イエスの食卓をどのように判断すべきかを、パリサイ人に良く考えさせるためなのです。今日の譬え話を通して、私たちがパリサイ人のように神様との関係が破壊され、神様と共に喜ぶことができない原因が何かを見てみましょう。

 まず、何でも支配しようとする心が問題です。私たちは自分の思い通りに物事を進めるために、状況や人を支配しなければならない時があります。その支配が自分の権威の下にある者に対してならいいのですが、神様に向けられた時、問題になります。支配を受ける側が支配する側を支配しようとするのは高慢の罪です。兄は、父の恵みに対して怒りを露わにしました。寂しく思うを通り越して、怒りを表すのは明らかに間違った態度です。誰かの支配下にいて、自分の思い通りに行かず、支配者の思い通りに行くのは当たり前です。それなのに自分の思い通りに行かないことに腹を立てるのは、自分が支配者になるべきだと言う意思表示と同じです。今の大学生の中には、学校の授業を聞いて教授に腹を立てる人がいるそうです。その理由が、聞いてもわからないから腹が立つそうです。全てが自分の支配下に入らないと我慢できないからではないでしょうか。しかし、自分が理解できない、支配できないのが当たり前で、理解できないから学ぶのです。しかし、その当たり前を受け入れられないほどに、私たちは高慢になりやすい世の中に住んでいるのです。

 弟は父の支配を離れようとしましたが、兄は父を支配しようとしました。一見違うように見えますが、どちらも父の支配を拒絶する罪を犯しています。物理的には、兄は父のそばにいるため、弟よりもマシに見えます。しかし、父のそばにいるにもかかわらず、父を理解しようとせず、父を支配しようとしていることから、より厄介な状態なのです。兄は自分の支配から外れる父の恵みに対して怒りました。それは何でも自分が支配しようとする間違った心があるからです。私たちはどうでしょうか?神様を支配しようとしていませんか?神様の恵みに対して怒りが湧き上がるのなら、それは知らず知らずの間に、神様を支配しようとする心が生まれているのです。

 次に、自分の力で正しくなろうとする心が問題です。人は自分で正しくなることはできません。人は「正義の味方」になることはできても、「正義」そのものになることはできないのです。そして「正義の味方」は「正義」に従うことで成ることができます。兄はその家の「正義」である父に従いませんでした。確かに兄は、自分勝手な行動をする弟とは対照的に、父の元で仕えていました。しかし、弟がおかしな発言をしても、家を出て行っても、諌めることも、連れ戻しに行くこともせず、家族関係の崩壊を防ごうとしませんでした。それは、自分は正しく、弟は悪いという見下した思いがあったからではないでしょうか。そしてその本性は、悪行を尽くした弟が帰って来て、父に最高のもてなしを受けた時に現れました。弟だけでなく、弟を赦して歓迎する父を拒絶したのです。これは、受け入れるべき父の正義を拒絶し、自分の正義を押し付けているのと同じです。

 弟は父の正義を受け入れましたが、兄は自分の正義にしがみつきました。人目を気にせず、愛をもってやって来る父の姿を見ても、弟と違って、自分の罪を認めようとしませんでした。弟と同じように父に無礼な態度をしておきながら、自分の罪が見えていないのです。それは自分が正しいと言う思いが邪魔をしてるからです。だから、弟と同じように自分にも優しく接する父の思いを理解しようともしないのです。私たちはどうでしょうか?神様に従うのではなく、自分の力で正しい人になろうとしていませんか?神様の思いを全く理解できないと言うのであれば、それは知らず知らずの間に、神様の正義に従わず自分の正義に従っているのです。

 最後に、重要なのは共に喜ぶことのできる親子の関係性です。私たちは、何でも思い通りにできる優秀な人間になること、誰もが認めるような正しい人間になることを目的とします。しかし、父なる神様が私たちに求めているのは、父の支配と正義に従うことのできる、父と心の距離が近い息子になることです。神様は優秀な人間や正しい人間ではなく、悔い改める人間を息子として歓迎します。確かに、弟は父を無視し、父の家の評判を落とし、父の財産を浪費しました。しかし、父の寄り添う姿を見て、悔い改めました。その結果、父との心の距離が縮まりました。一方で、兄も父の思いを無視し、父の家の評判を落とす行為をしました。父は兄にも寄り添いましたが、兄は悔い改めず、父との間に壁をつくりました。だから、父は、悔い改めた弟には諭すことをせず手厚く迎え入れましたが、自己正当化をする兄には諭しを与え、悔い改めを求めたのです。父にとって重要なのは、子供がしたことではなく、子供との関係なのです。

 だから、弟のように悔い改めて、父と共に喜ぶ関係になることを目指しましょう。優秀な人、正しい人を目指さないでください。重要なのは父の食卓につくことです。父は自分の威厳を犠牲にしても構わないほどに、兄にも弟にも同じ食卓について欲しいと願っています。弟には、人々の前で、服を取り乱して抱きしめに行きました。兄には、人々の前で、自分から立ち上がって会いに行きました。どうか私たちも、自分の支配力や正しさではなく、父が犠牲の愛をもって迎えてくれたことに目を向けてください。最初は理解できず受け入れることができなくても、弟のように理解できる日が来ます。

 「罪人と食事している」と非難するパリサイ人に、イエスはこう言いたかったのではないでしょうか?「神は悔い改めて帰ってくる罪人を喜ぶ。あなたちもそれを喜ぶことを神は望んでいる。自分ではなく、神の愛を見なさい。」と。

4。まとめ

① 兄のように、神様の恵みに怒っていませんか?

 ー何でも支配しようとする心が問題です。

②兄のように、神様の正義を無視していませんか?

 ー自分の力で正しくなろうとする心が問題です。

③重要なのは共に喜ぶことのできる親子の関係性です。 

 ー弟のように、悔い改めて、神様の愛を体験しましょう。 

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