20250803 日曜午後礼拝
聖書:ルカ24:24-35
題目:エマオへの道
賛美:429、430
それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。”
ルカによる福音書 24:24-35
1。ザビエルの情熱と真剣さ
ザビエルは回心の後、イエズス会の創設メンバーとして、ヨーロッパを離れ、インド、日本、中国にまで福音を伝えようとしました。43歳で日本に来た時は、言語も文化も未知の中で、身振り手振りで伝道を開始しました。短期間で日本語を習得し、教理問答を作るほどの情熱に満ちていました。それだけでなく、日本人に対して真剣でした。上から目線で教えようとするのではなく、日本人の心にどのように福音を伝えることができるかに焦点を当てていたのです。ザビエルは「この国の人々は高い知性と礼節を持っており、神のことを語るにふさわしい民である」と日本人に対して敬意を払っています。ザビエルは仏教僧と討論した後も、福音を拒絶し考え変えない彼らを馬鹿にしたりせず、「単なる熱意ではなく、真理を持って語る必要がある」と自分の方向性を修正しました。
46歳の時、日本からインドのイエズス会に当てた手紙にこう書いてあります。「私は昼も夜も、休むことなく福音を語った。たとえ声がかすれても、魂を一人でも救えるなら、その価値は計り知れない」と。そして「私は日本で、かつてないほどに、人間の理性と文化に感銘を受けた。この国の民がキリストを知ったなら、世界を変えるだろう」と書き残しました。それほどザビエルは情熱に燃え、福音を伝える相手に真剣でした。それはイエスキリストに出会って変えられたからに他ありません。
2。エマオへの道(ルカ24:13−35)
クレオパ(글로바)ともう1人の弟子が、イエスの死に失望し、日曜日の午後にエルサレムから出て行きました。クレオパは「父の栄光」という意味で、男性名です。女性名はクレオパトラと言い、こちらの方が馴染みがあるかも知れません。70人弟子のうちの2人だと考えられます。彼らはイエスの十字架の死について話しながら、故郷のエマオに向かっていました。
その帰り道で、ある男に「何の話をしているのか」と質問を受けます。ユダヤ人の間では知らない人の話に割り込むことは良くある事で、過越の祭りの巡礼者が帰り道で話をしながら知り合いになることは良くあることでした。クレオパたちは驚きながら「エルサレムにいながら知らないのか?」と答えます。さらに、イエスは業にも言葉にも力ある預言者だったこと、祭司長達や役人たちが十字架につけてしまったこと、そして、イスラエルを救うのはイエスだという望みが消えてしまったこと、仲間の女性たちが、イエスの墓が空っぽになり、イエスが生きていると言っていたことを話しました。
その男は「愚かで心の鈍い、預言者たちの教えを信じられない者たちよ」「キリストは必ず苦難を受けて、栄光に入るはずではなかったのか」と言い、聖書について彼らに優しく教えました。旧約聖書全体がメシアについて語っていることを説いたのです。
そして、エマオに到着した時、クレオパたちはその男に一緒に宿泊することを勧めました。日が暮れていたのに、その男がさらに先に進もうとしていたからです。一緒に食卓につき、祝福して、割いたパンを渡しました。その時、クレオパたちの目が開け、その男がイエスであることに気づきました。パンを割く仕草のせいか、その手に釘の跡を見たのかはわかりませんが、霊的な目が開かれ、イエスをはっきりを認識したのです。その時、イエスの姿が見えなくなってしまいました。
彼らは、イエスが聖書の解き明かしを聞いていた時、自分たちの心が燃えていたことを思い出しました。彼らはすぐに立ち上がり、夜にエルサレムに戻って行きました。そして11弟子たちに復活の事実を伝えたのでした。
3。適用
まず、私たちの心に正しく火をつけるのは神の言葉だという事実です。イエスはクレオパたちを「愚かで鈍い」と言いました。イエスを見ても認識できなかったからです。クレオパたちは12弟子ほど近くにはいませんでしたが、確かにイエスと共に行動していました。それでも12弟子たちのようにイエスを正しく理解できませんでした。それは旧約聖書を正しく理解していなかったからです。パリサイ人と同じように、聖書を道徳プログラム程度に考えていたからなのかも知れません。
しかし、聖書は全体が神の言葉であり、旧約聖書は来られるキリスト、新約聖書は来られたキリストを教えています。聖書はどこを切ってもイエスの血が流れるようになっており、人間でなくイエスが歴史の中心にあるのです。イエスもヨハネ5:39でそのように教えています。
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。”
ヨハネによる福音書 5:39
クレオパたちは食事をする時にイエスを認識しましたが、その心が熱くなったのは、イエスに神の言葉について教えてもらっていた時でした。神の言葉が私たちの心を熱くするのです。そしてその日のうちに急いでエルサレムに戻り、12弟子にイエスに出会ったことを伝えました。
ザビエルは「誰がキリストの愛から私たちを引き離すのか」(ローマ8:35)という聖句を好みました。これはザビエルの情熱の核心を言い表す聖句です。彼の使命感は困難や死さえも「キリストの愛から引き離すことはできない」という確信に基づいていたのです。ザビエルの心を熱くしていたのは神の言葉なのです。私たちの心を熱くするのは誰かの言葉ではなく、神の言葉なのです。
そして、火をつけるのは新しい人生を準備するためだということです。なぜイエスは復活後の40日間、様々な人々に会いにいったのでしょうか?間違った考えを捨て、新しいことを準備させるためです。祝福を得るための人生から、祝福を与えるための人生に変えるためです。クレオパはイエスと共に歩みましたが、本当の意味では何もわかっていませんでした。ずっと霊的な目が閉じられていたため、イエスの言葉も、女性たちの証言も信じることができず、失意の中で言い訳しながら、故郷のエマオに向かっていたのです。
私たちに火が必要なのは、キリスト者としての新しい人生を生きるためです。火がなければ、面倒になったらやめてしまいます。拒絶されたら黙ってしまいます。時間が経つと忘れてしまいます。実際、クレオパたちもそのようになっていました。しかし、火があると神の言葉を伝えずにはいられない状態になります。努力しよう、頑張ろう、といった次元ではないのです。クレオパたちのように、その日の内に行動しなければならなくなります。それは自分に利益があるか、自分の弱さがどうか関係がなくなります。ザビエルも心に火がついていたからこそ、43歳で日本にまで宣教しにくることができたのです。もし火がなければ、距離や年齢、言葉や文化の壁を理由に日本まで来ていなかったでしょう。エレミヤも同じ事を言っています。キリスト者としての人生に火は必要不可欠なのです。
“もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の/わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。”
エレミヤ書 20:9 口語訳
イエスはクレオパたちが認識した途端、姿を消しました。なぜでしょうか?それは心に火がついたからです。心に火があるから、イエスが見えなくなっても、大胆に前に進むことができるのです。
だから皆さん、御言葉で火がついた人生を送って下さい。足りないものばかり見て不満を言う人生、いつも怯えて何もしない人生、思い通りにいかないと怒って八つ当たりする人生から卒業しましょう。そのような人になりたいですか?そのような恋人や友達と一緒にいたいですか?何もなくても感謝する人生、どんな環境でも大胆に行動する人生、思い通りに行かなくても動揺しない人生を送りましょう。パウロもそのように勧めています。
“熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、”
ローマ人への手紙 12:11 口語訳
全ての人の心に傷があります。エマオに帰るクレオパたちだけでなく、お墓参りをする女性たちも、イエスを殺したユダヤ人たちもそうでした。しかし、そこから立ち直ることができたのは、イエスキリストが復活したという神の言葉を受け入れ火がついた人々だけです。自分の傷を隠してクールなふりをして人生を送ろうとするのはやめましょう。全ての生徒が、この世のものではなく御言葉で心に火をつけて、熱い人生を送ることを望みます。
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