聖書:エゼキエル11:16
題目:安全はどこにある?
賛美:381、382
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「それゆえ、言え、『主なる神はこう言われる、たといわたしは彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らしても、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのために聖所となる』と。」
エゼキエル書 11:16 口語訳
1.大きな木か、小さな木か?
私が小さい頃に聞いた、日本の昔話を一つ紹介します。ある人が外で突然の嵐に遭いました。激しい雨と雷です。周りにいた人たちは、「あの大きな木の下に行こう。あそこなら安全だ」と言って、皆で大きな木の下に集まりました。その人も遅れてそこへ行き、入れてもらおうとしました。しかし人がいっぱいで、「もう入れない」と断られてしまいます。
仕方なく、その人は少し離れたところにあった小さな木の下に、一人で身を寄せました。しかし心の中では、「こんな小さな木では危ない。あの大きな木の下に入れなかった自分は不運だ…」と思っていました。その時です。大きな雷が落ちました。雷は大きな木に落ち、その下にいた人たちは倒れてしまいました。しかし、小さな木の下にいたその人は助かりました。
この話は、とても大切なことを教えています。私たちはよく、「大きいから安全だ」「みんながいるから安心だ」と考えます。しかし実際には、人が考える安全は完全ではありません。さらに言えば、小さな木の下でさえ、本当は完全に安全ではないのです。雷の時、本来取るべき行動は、高いものから離れ、低く身をかがめ、地面との接地をできるだけ少なくすることです。
では、私たちの人生ではどうでしょうか。私たちも日々「安全」を求めて生きています。安心できる場所、確かなもの、大丈夫だと思えるものを探しています。しかしその多くは、「大きいから安心」「多くの人がいるから安全」という基準ではないでしょうか。けれども、それは本当に確かな安全なのでしょうか。今日は本文を通して、「本当の安全とは何か」を考えていきたいと思います。
2.エルサレムか、バビロンか?
① この世の「安全」という思い込み(1〜13節)
今日の本文は、バビロンにいるエゼキエルに、神様が幻を通してエルサレムの様子を見せる場面の続きです。エルサレムに残った指導者たちは、「この町は鍋、私たちはその中の肉だ」(3節)と言っていました。これは、「神殿のあるエルサレムにいれば守られるから大丈夫だ」という意味です。しかし神様はそれを否定されます。むしろエルサレムは裁きの場所であり、危険な場所だと言われるのです。そして象徴的に、指導者の一人であるペラテヤが倒れます(13節)。
人は自分で「安全」を定義しようとします。地位があるから、環境が整っているから、宗教的に正しいから安全だと考えます。しかしそれは、神を抜きにした安心です。状況が変われば、一瞬で崩れてしまいます。人が安全だと思っている場所が、必ずしも安全とは限らない。この事実は、神を信じていない人でも理解していることです。
② 本当の安全はどこにあるのか(14〜21節)
エルサレムの人々は、バビロンに連れて行かれた捕囚の民を見下していました。神殿から遠い彼らは、神様からも遠いと考えられていたからです。しかし神様は、「わたしが彼らの聖所となる」と言われました。つまり、エルサレムにいても神様がおられなければ危険であり、バビロンにいても神様がおられるなら安全だということです。
人は安全な場所を自分で決めようとします。家、職場、行きつけのカフェなど、特定の場所に安心を求めます。しかし神様は言われます。「わたしが彼らの聖所となる」と。つまり、クリスチャンにとっての安全とは、「場所」ではなく、「神が共におられること」そのものなのです。
③ 神の臨在が去ることの恐ろしさ(22〜25節)
ここでは、神の栄光がエルサレムを離れていく姿が描かれています。都は残っています。建物もあり、人々の生活も続いています。しかし、そこにはもはや神の臨在がありません。外から見れば何も変わらないように見えても、最も大切なものが失われているのです。
どれほど立派な場所であっても、神が共におられないなら、そこは真に安全な場所ではありません。神の臨在こそが人を守り、生かすのです。「神様が去った場所は安全ではない」という、この事実を、私たちは決して忘れてはなりません。
3.この世のものか、神様か?
① この世の安全
私たちもまた、「安全」を求めて生きています。親は子どもに一生懸命勉強させ、「良い学校に入れば将来は安心だ」と考えます。若い人は「給料の良い会社に入れば安定する」と思います。また、貯金や財産、保険、人間関係の中に安心を見出そうとする人もいます。
しかし、それらは本当に私たちを守ることができるのでしょうか。状況が変われば、簡単に揺らいでしまいます。どれほど整っているように見えても、神がおられないなら、それは完全な安全ではありません。
② 神の国の安全
主イエスは言われました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)。また、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、だれも彼らをわたしの手から奪い去ることはありません」(10:28)。
ここに本当の安全があります。それは環境や条件の中にあるのではなく、神ご自身の中にあるのです。神の国の民にとっての安全は、学歴やお金や名誉ではありません。神が共におられること、それ自体が安全なのです。
③ 次世代へ伝えるべき安全
私たちは次の世代に、「何が安全か」をどのように教えているでしょうか。神様のそばにいることこそが安全だと伝えているでしょうか。それは、赤ちゃんがどこにいても、母親がそばにいれば安心するのと同じです。場所ではなく、「誰が共にいるか」が安全を決めるのです。
もし子どもが受験勉強を優先するあまり、親との関わりを拒むようになるなら、注意が必要です。本来の守りがどこから来ているのかを見失っているからです。同じように、私たちクリスチャンも、神様に信頼し、その臨在の中に安心を置くことが本来の姿です。だからこそ、私たちが次の世代に伝えるべきことは、「成功する方法」ではありません。「どこに本当の安全があるのか」という真理です。それは、神様の中にあるのです。
4.まとめ
人は「安全」を求めます。しかし、次のことを忘れてはなりません。
① この世は間違った安全を教える
② 神だけが本当の安全を与える
③ 神がおられないなら、すべての安全は崩れる
安全な場所はどこにあるのでしょうか。たとえ危険に見える場所であっても、神様が共におられるところこそが、最も安全な場所です。主と共に歩む一週間となりますように。

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