20211226日曜礼拝
聖書:サムエル上17:38
題目:巨大な敵の克服方法
説教:高曜翰 伝道師
場所:Jesus Love Church
「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテ人の手から救い出されるでしょう。」
1.イントロダクション
私たちは人生の中で“巨大な敵”に直面することがあります。
それをどのように克服すればよいのでしょうか。
敵が過ぎ去るまでただ恐れて待つしかないのでしょうか。
どうすれば、ダビデのように勇敢に立ち向かうことができるか——
その答えをこの箇所から学ぶことができます。
(例:私自身、大学院での問題を前に逃げずに向き合わなければならなかった経験がある。争いを避けることが、必ずしも良い結果を生まないことがある。)
2.正しい謙遜とは何か
正しい謙遜とは、“人を恐れる”ことではなく、“神を恐れる”ことです。
ゴリアテは身長2.9m、鎧は57kg、槍の穂先は6.8kg。
この巨人が40日間イスラエルを侮辱し続け、兵士たちは皆恐れおののいていました。
しかし少年ダビデだけは怒りを燃やし、「神の民イスラエルを侮辱するとは何事か」と立ち上がりました。
兄エリアブはダビデを叱りつけ、「世の中そんなに甘くない」と言わんばかりに彼を軽蔑しました。
本来怒るべき相手はゴリアテなのに、腹いせをダビデに向けたのです。
一方ダビデは兄を責めることなく、正しく弁明しました。
ここに“謙遜”の本質があります。
-
謙遜とは、悪に対して黙ることではない
-
謙遜とは、人を恐れてへりくだることではない
-
真の謙遜とは、神を恐れる姿勢である
(例:私も巻き込まれることが怖くて、叔母の悪口を聞いても黙っていた経験がある。人を恐れると神の正義を曲げることになる。)
神を恐れる者は、人を恐れません。
正しい謙遜をもつとき、私たちは巨大な敵にも立ち向かう力を得ます。
3.武器は主の御名
巨大な敵に勝つために必要なのは、強力な武器でも重い鎧でもありません。
ゴリアテは剣と槍で武装していましたが、
ダビデの武器は石と“万軍の主の御名”だけでした。
彼は言いました。
「神は剣や槍によらずイスラエルを救う。」
ダビデは神の働きが人間の常識とは異なることを知っていました。
その秘訣は羊飼いとしての訓練から来ています。
ライオンやクマが襲ってきても、強力な武器無しに打ち倒した——
それは、神の力を体験していたということです。
サウルは自分の鎧を着せ、剣を持たせましたが、ダビデは「慣れていない」と断りました。
戦場に行くなら武器が必要、というのは人間の常識。
しかし神の常識はそうではありません。
(例:牧師になる条件について、世の武器=学歴、カリスマ、人脈、お金…を求める人と、神への忠実・祈り・信仰を教える人がいた。)
私たちはつい「自分が持っているもの」に頼りがちです。
しかし、本当に重要なのは「何を持っているか」ではなく、「誰を頼りにしているか」です。
結果は私たちの努力のみによってではなく、神の権威によって現れます。
だからこそ“主の御名”を武器とするとき、巨大な敵に立ち向かうことができるのです。
4.人の見ていないところでの訓練
サウルとダビデには大きな違いがありました。
サウル
-
外見が優れていたため、常に人々の注目を浴びていた
-
人に認められたい一心で戦った
-
人が離れることを恐れ続けた(13:11、15:24、18:8)
-
「神のため」と言いながら実際は自分のために行動していた
ダビデ
-
父からも忘れられるほど“目立たない存在”
-
羊飼いという人目につかない仕事を誇りに思っていた
-
任された羊がわずかでも、命がけで守った
-
ライオンやクマにも立ち向かった
-
誰も見ていなくても誠実であった
(例:私も親の前では勉強していたが、いないときはゲームをしてしまった。
もし見ていない時も勉強していたら全く違う結果になっていただろう。)
“誰も見ていないとき”こそが、神が見ておられるときであり、そこでの行動が本当の自分を作り上げます。
巨大な敵に打ち勝つ信仰は、隠れたところでの訓練から生まれます。
5.神学的意味
ゴリアテの3mの巨体は、サタンの象徴である“巨人”を連想させます。
そしてダビデの石はキリストを象徴します。
石(キリスト)が巨人(サタン)を打ち倒す——
旧約の物語は新約の救いを指し示しています。
さらに、私たちが人を恐れず神を恐れる姿は、周囲にとっての模範となります。
6.結論
ダビデのように生きるために必要なことは何でしょうか。
-
正しい謙遜
人を恐れず、神を恐れる。 -
武器は主の御名
人や世の力に頼らず、神に頼る。 -
見えないところでの訓練
人目ではなく、神の前で誠実に生きる。
巨大な敵を見るのではなく、神が見ておられることを意識して歩みましょう。


댓글0개