20220205 土曜家庭礼拝
聖書:サムエル上1:1–18
題目:ハンナが癒された理由
賛美:410番
説教:高曜翰 伝道師
場所:家庭
1.ハンナの置かれた環境
エルカナには二人の妻がいました。ペニンナには多くの子ども——息子も娘も10人以上いたと言われます。一方、ハンナには子どもがなく、当時の社会では「子どもを産めない女性は神の祝福を受けられず、呪われている」とみなされていました。そのため、ペニンナはハンナをいじめ、彼女を深く苦しめました。
旧約には、レアとラケルが子どもをめぐって競争した例があります。一夫多妻制が生み出した悲劇と言えるでしょう。
2.夫の愛では癒されなかった
エルカナはハンナを深く愛していました。和解のいけにえをささげる時、分けられる肉のうち、半分をハンナに、もう半分をペニンナに与えました。ハンナは一人で多く受け取っていたほど、夫の愛情は明らかでした。
しかし、その愛はハンナの心の痛みを癒すことはできませんでした。ラケルも夫ヤコブの愛では満足できず、自分の求めるものが得られなかったことに苦しみました。
人は、世の中のもので決して満たされません。
3.祈りによる癒し
礼拝後の食事が終わった後、ハンナは心を痛め、主に祈りました。
「もし男の子を授けてくださるなら、その子の一生を主にささげます。」
その時点で環境は何一つ変わっていません。子どもも与えられていません。祭司エリの言葉はありましたが、神様からの明確な応答があったわけでもありません。
それでも聖書はこう記します。
「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」
子どもがまだ与えられていないのに、ハンナは癒されました。
祈りによって、人は癒されるのです。
4.なぜハンナは癒されたのか?
癒しの理由は、環境が変わったからでも、ペニンナがいなくなったからでも、願いが聞かれる確信が与えられたからでもありません。
ハンナは、自分の人生を神様にささげる決意をしたからです。
「子どもをささげる」とは、最も大切なものを神に差し出すということです。アブラハムがイサクをささげたように、神様がイエス・キリストを犠牲にされたように、ハンナは心の中心を神に明け渡しました。
その時、ハンナ自身が変わったのです。
5.苦しみの原因と誤解
私たちが苦しむのは、自分の罪のため、または神様のご計画のためです。そこで誤解してはいけないのは、「豊かである人が恵まれているわけではない」ということです。ペニンナがハンナより正しいわけではありません。
北朝鮮に生まれたから罪人で、アメリカに生まれたから義人、ということではありません。
環境のせい、人のせいにしてはいけないのです。
苦しいのは、まだ自分を神様に明け渡しきれていないから。
神様にささげるとき、私たちは変えられます。
苦しみは、神に祈る良い機会なのです。
6.何を祈るべきか?
祈りは、自分の夢を叶えるため、問題解決のため、世界平和のため…そのような祈りではありません。
イエスは
「信じて求めるものは、みな与えられる」(マタイ21:22)
と言われましたが、条件があります。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているなら」(ヨハネ15:7)
つまり、神に人生の主権を返し、キリストの人生を歩むときに与えられる祈りです。
神の国に参加することが前提なのです。
ハンナの祈りは、
「与えてくださるなら、その子の一生をささげます。」
という、神に近づく祈りでした。
逆に、エフタのように高慢な心で誓うと、人を傷つける結果になります。
また、どんな願いでも、それが神から離れるものなら、神様は決して聞かれません。
子どもたちについても同じです。「良い学校・良い就職・良い結婚先を」と祈って、それが神様から離れる結果となるなら、意味がありません。
親の祈りはこうあるべきです。
「子どもたちが与えられた性格・能力・経験を通して、神の計画を知り、神の国のために生きられるように。」
7.結論
あなたは何で心を満たそうとしていますか。
他人で満たそうとしないでください。
この世のもので癒されようとしないでください。
キリストの人生を生きるとき、私たちは満たされ、癒されます。
この世を求める祈りではなく、神に近づく祈りを捧げましょう。
祈りの課題
私のせいで教会が苦しまないように。
コロナの中でも、人々が恐れず礼拝できますように。
神様がヨハネに結婚の相手を与えてくださいますように。


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