20220219土曜家庭礼拝
聖書:ヘブル人への手紙 11:11
題目:サラの信仰
賛美:190
説教:高曜翰 伝道師
場所:家庭
「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」(ヘブル11:11)
1.創世記に見るサラの姿
ヘブル11章では、サラの信仰が高く評価されています。しかし創世記の記述を見ると、必ずしも信仰深いようには見えません。
・サラは65歳で神様の約束を聞きましたが、長い期間待ちきれず、75歳の時に女奴隷ハガルをアブラハムに与え、76歳でイシュマエルを産ませました(創世記16章)。
・89歳になった時、神は再びアブラハムに「男の子が与えられ、サラが国々の母となる」と約束されました(創世記17:16)。しかしアブラハムは笑いました。
・さらにアブラハムの家を訪れた主は、「来年、サラから男の子が生まれる」と告げました(創世記18:10)。すると今度はサラが笑いました。
「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう」と、不信の笑いでした。
・またゲラル滞在中、アブラハムは再びサラを「妹」と偽ろうとしましたが、サラはそれを止めませんでした(創世記20章)。
こう見ると、サラは信仰深いとは言い難い姿を何度も見せています。
2.サラに見られる「行動を伴う信仰」
しかし、創世記21:1–7を読むと、サラには確かに信仰の行動があったことがわかります。
サラは「子どもを授かる」との約束に応答し、実際に子どもを作る行為を行い、その結果、イサクを授かりました。
つまり、サラの心には、「約束を信じて従う」という行動が確かにあったのです。
生まれた子の名は「イサク」。
「笑い」という意味です。
創世記21:6では、
「神は私に笑いをお与えになりました」と記されています。
かつての疑いの笑いは、喜びの笑いに変えられたのです。
サラの「従う行動を伴った信仰」が、不信の笑いを喜びの笑いに変えていきました。
3.信仰とは何か
ヘブル11:1にはこうあります。
「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させることです。」
これは、
・自分勝手な望みが叶うという意味ではありません。
・神を自分の味方につけ、助けてもらって何か大計画を成し遂げる、ということでもありません。
ここでいう
望んでいること=目に見えないもの=神の計画
です。
信仰とは、神の願いを受け入れ、自分の夢が神の夢と一致していくことです。
サラの信仰は、自分の思いが神の思いと一つになり、その思いに従って行動したところにありました。
4.自分の思いを神様に合わせる信仰
私自身も、結婚という望みを一時は諦めかけました。
しかし、牧師を目指すようになってから、再び結婚へ向けて努力するようになりました。
また教会からも、「共に牧会できるパートナーを祈り求めなさい」と勧められました。
今私は、自分の望みを神様の思いに合わせ、神様が導かれる結婚相手を選ぼうとしています。
信仰とは、自分の思いを神様の思いに合わせていくことです。
私たちもサラのように、
神様の願いを自分の願いとし、行動を伴う信仰を持ちましょう。


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