20250803日曜午前礼拝
聖書:ルカ19:1-10
題目:真剣なザアカイ
賛美:94、267、270
説教:高曜翰 牧師
”さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。
ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。
彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。
それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。
イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。
そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。
人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。
ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。
人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。“
ルカによる福音書 19:1-10
1。ロヨラに出会うザビエル
フランシスコ・ザビエル(1506-1552)は、スペインとフランスの間にあったナバラ王国の名門貴族出身で、スポーツ万能で頭も良く、ハンサムな青年でした。19歳で当時最高峰の神学を学ぶため、パリ大学に入学しました。しかし、目的は地位の高い職について裕福に暮らすことでした。ザビエルは神に仕えるのではなく、神を利用して自分の人生を豊かにしようとしていたのです。そんなザビエルですが、23歳の時、38歳のロヨラと出会いました。
イグナチオ・ロヨラ(1491-1556)はスペイン軍人でしたが、右足の負傷のため軍人を引退せざるを得ませんでした。英雄的な騎士になって女性の心を射止め、武功を立てて人々に賞賛されたいという夢は奪われ、失意の中にいました。しかし、9ヶ月間の療養生活中の読書でキリストと出会い、自分の夢の虚しさを知り、神に仕えたいという思いを持つようになりました。自分の夢に心を奪われている時は、一時的に心が高ぶるのですが、虚しさが残ります。しかし、神に心を集中させた時、満足と平安が残ったのです。そしてロヨラは神に仕える仕事をするためにパリ大学に行ったのです。
ロヨラはかつての自分のように生きるザビエルを見て、出会うたびに「人は、たとい全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、なんの得があろうか」(マタイ16:26)という聖書の言葉をぶつけました。最初ザビエルは無関心を示していましたが、繰り返すロヨラに不快感を覚え、無視するようになりました。しかし、繰り返されるマタイ16:26の言葉が次第に心を刺すようになり、真剣で情熱のあるロヨラから黙想や祈りを学ぶようになりました。その結果、ザビエルは自分の成功や栄光を追い求める人生が虚しいものであることを悟り、神に仕える人生を選択しました。そして28歳の時、ロヨラたちと共にイエズス会(イエスの友の会)を設立したのです。ザビエルたちは自分の世界を作る者ではなく、世界中に神の国を作る者となったのです。真剣な者の言葉には真剣な応答があります。
2。イエスに出会うザアカイ
ザアカイは世界最古の都市エリコに住んでいました。海抜240mと世界一低い位置にある都市です。地面から湧き出るオアシスで栄えました。首都エルサレムにつながる幹線道路沿いの街で、周辺で採取されるナツメヤシをローマに輸出していました。物流の拠点であり、関税徴収の町として知られていました。
ザアカイはそんなエリコの取税人のかしらとして生きていました。しかしそれは同時に、ローマの手先となった裏切り者の代表を意味していました。ザアカイの名前の意味は『義人』ですが、町の人々は名前で呼ばず、『罪人』と呼んでいました。それほどに嫌われていたのです。
ザアカイは前からイエスに会いたいと真剣に思っていました。それは「ゼーテオー」という「発見するために探す」意味を持つギリシャ語からわかります(19:3)。そのイエスがエリコにやって来たのです!ザアカイはイエスを一目見ようとしましたが、多くの人々がイエスを取り囲んだので、背の低いザアカイはイエスを見ることができませんでした。そのため、ザアカイは子供のように木に登ってイエスを探しました。通常、大の大人なら木に登るようなことはしません。しかしザアカイは人目も気にせず木に登りました。
なぜそこまでイエスに会いたかったのでしょうか?イエスが3大嫌われ者(取税人、遊女、犯罪者)と親交を持つことを知っていたのかも知れません。すでに取税人仲間のマタイと親しく、イエスについて知っていたのかも知れません。自分も同じように受け入れられたいと考えていたと推測されます。
イエスは軽蔑対象であるはずのザアカイに先に声をかけました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい」と。人々が呼ぶことのない、嫌われ者の「ザアカイ」(義人)の名前を呼んだのです。そして「今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言いました。それはザアカイを友達であると認める意味があります。ザアカイはとても喜び、急いで降りてきて、イエスを家に招待しました。
ザアカイは、「自分の財産の半分を貧民に施します。不正な取り立て分は4倍にして返します」と宣言しました。ザアカイは自分の罪を悔い改めたのです。そして自分の富が自分のものでないことに気づいたのです。それを聞いてイエスは「今日救いがこの家に来た。この人もアブラハムの子なのだらか」と。「アブラハムの子」と言ったのは、当時アブラハムの子孫が救われると考えられていたからです。つまり、人々が『罪人』と呼ぶザアカイをイエスが『義人』であると宣言しているのです。ザアカイはお金に縛られる人生から解放され、神の国の民になりました。
イエスは「私が来たのは失われたものを尋ね出して救うためである」と続けました。それはザアカイと同じ食卓につくイエスを批判的な目で見ている人に対する発言です。ここでも「ゼーテオー」という「発見するために探す」意味を持つギリシャ語が使われています。イエスもまた真剣に自分を探し求めるザアカイに真剣に会いに来ていたのです。救いは血筋ではなく、真剣に主に応答する者に与えられる恵です。この物語で重要なのは、ザアカイのように人に馬鹿にされても、真剣に行動する者にイエスは答えてくれるということです。
3。適用
ザアカイはイエスに出会うことで生まれ変わりました。お金がないと幸せになれないという考えから解放されたのです。そして自分の努力が間違っていたと、行動で告白できるようになったのです。だから自分のお金を自分のようにこの世から拒絶された人々に分け与える決断ができたのです。イエスに出会うと、当たり前だと思っていた価値観がひっくり返ります。憎い相手を許せるようになり、もらうよりも与えることを喜ぶようになります。ザビエルはロヨラと出会うことで、人生が変えられました。この世の地位、運動能力、地力、外見など、この世のものを追い求める人生から神の国を追い求める人生に変えられたのです。
だから私たちは真剣にイエスを探しに行きましょう。真剣とは、心が相手に向かって集中している状態を言います。ザアカイは、背の低さ、悪い人間関係、この世の常識など様々な障害を持っていましたが、真剣さを持って乗り越え、イエスに会いに行きました。その結果、イエスはザアカイに真剣に呼びかけ、ザアカイもまた真剣に応答したのです。心が自分ではなく、相手に向かって集中した結果です。ザビエルも最終的にロヨラの真剣な呼びかけに真剣に応答した結果、イエスズ会へ参加し、世界宣教に出かけました。ロヨラのように心が自分ではなく、相手に向かって集中するようになったのです。放蕩息子の比喩に出て来た父親のように、神様は私たちを真剣に呼びかけています。自分の面子や体裁を守ることが目的ではありません。私たちはついカッコつけるために、クールを装いますが、それでは心が自分に向かっている状態であり、相手に向かっているのではありません。それでは真剣な出会いをすることは不可能です。真剣さを持って、イエスに向かって集中する時、すでに私たちに集中しているイエスに出会うことができます。
この世では、良くしてくれる人、褒めてくれる人、助けてくれる人はたくさんいます。しかし、真剣に接してくれる人は多くありません。なぜなら、人よりも自分が大事だからです。しかし、イエスキリストは誰よりもあなたに真剣です。時として、傷つけたり、怒ったり、助けてくれなかったりしますが、誰よりも真剣です。それはご自身の命を投げ捨てるほどです。冗談で誰かのために命を捨てることはできません。
どうか真剣にイエスに会いに行ってください。見つかったらラッキー、そんな程度ではなく、探し求める「ゼーテオー」をして下さい。必ず様々な障害があります。人の目が気になります。そんな時、自分ではなく、イエスキリストに集中してください。そうすれば必ずイエスキリストが手を掴んでくれます。そして、この世のものから解放される自由を手に入れることができます。全ての人がイエスキリストと出会い、人生が変えられることを望みます。
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