20211203金曜祈祷会
聖書:サムエル上1:11
題目:満たされるのはいつか?
説教:高曜翰 伝道師
場所:Jesus Love Church
1.ハンナの状況
サムエル記第一1章11節には、ハンナが深い悩みの中で神に誓願する姿が記されています。ハンナの夫エルカナには二人の妻がいました。ペニンナには息子と娘が数多く与えられていましたが、ハンナには子どもがいませんでした。当時、子どもを産めない女性は「神の祝福を受けていない者」「呪われた者」と見なされる風潮がありました。そのため、ハンナはペニンナからいじめられ、心を深く痛めていました。
レアとラケルが子どもをめぐって競争したように、一夫多妻制が生み出す苦しみは聖書の中で何度も描かれています。ハンナもその苦しみの中に置かれていたのです。
2.夫の愛による癒し
夫エルカナはハンナを深く愛していました。和解のいけにえをささげるとき、脂肪は神に、胸と右肩は祭司に、そして残りはささげた本人が受け取るものでした。エルカナはその残りを二人の妻に分ける際、ハンナが一人で多くの分け前を受け取るほど彼女を愛していました。
しかし、その愛情にもかかわらず、ハンナの心は癒されませんでした。ラケルも夫ヤコブに愛されたにもかかわらず、子どもがいないことで満たされませんでした。同じように、人は自分が「一番欲しいもの」が手に入らないとき、どんなに周りからの愛を受けても満たされないことがあります。
そして、そもそもこの世のものによって、私たちの心が完全に満たされることはないのです。
3.祈りによる癒し
礼拝の食事が終わった後、ハンナは心を痛めながら主の前に出て祈りました。「もし男の子を授けてくださるなら、その子を一生あなたにお捧げします」と誓ったのです。
祈ったその瞬間、状況は何も変わっていませんでした。子どもはまだ与えられていないし、神から直接の応答があったわけでもありません。ただ祭司エリが「安心して帰りなさい」と声をかけただけです。
それでも、祈り終えたハンナの顔は「以前のようではなく」平安に満たされていました。
祈りは、願いが叶ったから癒すのではありません。祈るという行為そのものが、神の前に心を注ぎ出すこと自体が、私たちの心を癒します。祈りは、状況が変わる前に私たち自身を変えるのです。
4.なぜ癒されたのか?
では、なぜハンナは癒されたのでしょうか。環境が変わったからではありません。ペニンナがいなくなったからでもありません。願いが叶う確信を得たからでもありません。
ハンナが変わったのです。
「男の子を与えてくださるなら、その子を主に捧げます」と祈ったとき、ハンナは自分にとって最も大切なものを神に差し出す決意をしました。これは、子どもだけでなく、自分の人生そのものを主に明け渡す決断でした。
アブラハムがイサクを捧げたように、そして神が御子イエス・キリストを犠牲として与えたように、最も貴重なものを神に委ねるとき、私たちの内側は変えられます。
私たちの苦しみの原因は、自分の罪のためである場合もありますが、神の計画のために与えられていることもあります。しかし、他人と比較して「豊かなら祝福されている」「貧しいから呪われている」と判断してはなりません。ペニンナが正しいわけでもありません。
苦しみの原因を他人や環境のせいにして生きると、人生を他人に依存してしまいます。私たちが本当に苦しいのは、自分を神に差し出しきれていないからです。自分を神に委ねたとき、人は変えられます。そして、その苦しみ自体が、神に祈り、神に立ち返るための恵みの機会となるのです。
5.何を祈るか?
では私たちは何を祈るべきでしょうか。自分の夢の実現や問題解決、幸せな生活のために神の力を利用するような祈りではありません。
聖書は「信じて求めるものは、みな与えられる」と言いますが、それには条件があります。「あなたがたがわたしにつながり、わたしの言葉がとどまるなら」という条件です。
つまり、「神に人生の主権を返し、キリストに結ばれた人生を歩むならば」、その祈りは神の御心に一致し、かなえられるのです。
ハンナは「子どもを授けてください。そしたらその子をあなたに捧げます」と祈りました。
誤った誓願の例として、エフタの娘の悲劇のように、高慢な心や自己中心的な願いは災いを生みます。
私たちも、自分の願いによって神から離れてしまうなら、その願いは神によって退けられるべきものです。
ですから、「子どもが良い学校・良い会社・良い結婚を」と祈るのではなく、「与えられた賜物と性格と経験を用いて、神の計画を悟り、神の国のために生きる子どもになりますように」と祈るべきです。
結論
私たちは何で心を満たそうとしていますか。
他人で満たそうとしてはいけません。この世のもので癒されようとしてはいけません。
キリストの人生を生きるとき、人は真に満たされ、癒されます。
この世の願いを求める祈りではなく、神に近づき、神に自分を差し出す祈りをささげましょう。


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