20211212日曜礼拝
聖書:サムエル上8:4–5
題目:隣の芝ではなく、神の国を見る
説教:高曜翰 伝道師
場所:Jesus Love Church
1.隣の芝は青い
小学生の頃、放課後に友達の家へビデオゲームをしに行っていました。自分の持っていないおもちゃ、カード、お菓子を買ってくれる寛大な父親。友達が持っているものはすべて良く見え、私はしばしば嫉妬しました。しかし後になってわかったのは、その時間によって勉強する機会が奪われ、集中力が奪われ、お金も訓練の機会も奪われていたということです。
見た目には良いもののように見えても、実は私たちから奪っていくものがあります。「隣の芝は青い」と思えるときほど注意が必要です。
2.サムエルの失敗
士師サムエルを通してイスラエルは霊的に大きく回復しました。しかし、サムエルにも弱さと失敗がありました。彼は息子ヨエルとアビヤを士師に任命しましたが、士師とは本来、神が立てるものであり、人間が立てるものではありません。
サムエルの息子たちは自分の利益を優先し、わいろを取り、裁きを曲げていました。祭司エリの息子たちと同じ問題を繰り返していたのです。どれほど霊的に優れた指導者でも、子どもを完全には育てられません。ノア、アブラハム、ダビデも同じです。人は完全ではありません。
長老たちはサムエルの息子たちが指導者となることを拒みました。これは霊的に正しい判断でした。息子だからと言って特別扱いしてはいけません。私たちは指導者を盲目的に受け入れるのではなく、その人が神に忠実かどうかを見極めなければなりません。ここまでは正しい判断だったのです。
3.イスラエルの要求
しかし長老たちは次にこう言います。「ほかのすべての国民のように、王を立ててください。」(8:4)
確かに神はユダ族から王を立てると約束しておられました(創世記49:10、申命記17:14–20)。問題は“動機”でした。
① 「ほかのすべての国民のように」
神の民としてのアイデンティティより、隣の国々がうらやましい。
これは嫉妬から出る要求です。
イスラエルは見えない神よりも、目に見える王を求めました。
② 「我々のために」
生き方の中心が「神のため」ではなく「自分のため」。
「王が私たちをさばき、率いて、戦ってくれる」(8:20)と期待しました。
ペリシテ人との戦いでは、彼らは悔い改め、祭壇で生贄を捧げ、主の言葉を聞きました。しかし王がいれば、そうした霊的な手順を踏まなくても王が戦ってくれる――そう考えたのです。神の加護を軽んじ、自分たちの王国に目を向けてしまいました。
4.サムエルを拒絶するイスラエル
サムエルはこの要求を聞いて心を痛めました。自分が拒絶されたと感じたからです。しかし祈ったサムエルに、神は「彼らが拒んでいるのはお前ではなく、わたしである」と告げます。
今日でも、牧師・伝道師・サモニムが神の言葉に従って歩んでいるとき、その言葉を拒絶することは神を拒むことと同じです。
それでも神はイスラエルの願いを聞き入れるようにサムエルに命じました。しかしそれは彼らの願いが正しいからではなく、「その選択の結果を通して間違いを学ばせるため」でした。
母親が子どもにあえて経験させて学ばせるように、神も責任逃れができないよう警告を与えながら王を許されました。
士師は神が必要に応じて立て、使命が終われば元の生活に戻ります。一方、王は一生支配し、政府を作り、軍隊を作り、その権力は子孫に受け継がれます。
神は与える方ですが、王は「民から取る存在」になるのです。
5.神の王国と異邦人の王国
イエスはこう言われました。
「異邦人の国では、権威ある者がその下の者を支配する。しかし神の国では、偉い人が低い人に仕える。」(マルコ10:42–45)
異邦人の国では「力ある者が正しい」。
神の国では「仕える者が正しい」。
人間のものは素晴らしく見えても、不完全さゆえに私たちを苦しめます。しかし神のものは一見退屈に見えても、完全な性質のゆえに私たちに本当の祝福を与えます。
イスラエルは一時の不満によって長く続く制度を選びましたが、私たちはすでに神の国に属しています。他人と比較したり、嫉妬したりする必要はありません。
6.結論
隣の芝を見て嫉妬する必要はありません。
神に従う者は、すでに最も良いものを与えられています。
私たちは自分のためではなく、神と隣人を愛するために生きる者です。神のために生きるとき、私たちに本当に必要なものを、不完全な人間の視点ではなく、完全な神の視点から与えてくださいます。


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