20251224クリスマス礼拝
聖書:ヨハネ11:25
題目:死の不安を取り除くクリスマス
賛美:118、109
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
聖書本文
「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。』」(ヨハネ11:25)
1.中浦ジュリアンに見る「死に支配されない信仰」
中浦ジュリアン(1568–1633)は、日本二十六聖人の一人として知られる信仰者です。
彼は長崎で生まれ、キリスト教徒の多い環境の中で育ちました。ロレンソ了斎の影響を受け、宣教師たちとの人格的な出会いを通して信仰を深めていきました。
やがて彼は、四人の天正遣欧少年使節団の一人としてヨーロッパへ派遣され、日本人として初めてローマを見た人物となりました。その目的は、日本での伝道を支援してもらうためであり、彼は壮麗で守られたキリスト教世界を目の当たりにしました。
しかし、八年後に帰国した日本は大きく変わっていました。豊臣秀吉によるバテレン追放令が出され、多くの信者が棄教するか地下に潜るか、あるいは処刑される時代となっていたのです。
そのような中で、彼はマカオで司祭となり、日本に戻って宣教を続けました。四人の使節のうち、一人は棄教し、一人は病死し、一人は追放されましたが、それでも彼は夜に隠れながら伝道を続けました。
そしてついに逮捕され、65歳の時、逆さ吊りの刑によって殉教しました。
なぜ彼は殉教の道を選ぶことができたのか
中浦ジュリアンの殉教は、決して劇的なものではありませんでした。さまざまな発言が伝えられていますが、一次資料には残っておらず、実際には拷問の中でも叫ぶことなく、静かに耐えたとされています。
彼は勇敢な英雄というよりも、むしろ静かで自由な人でした。
一般的に人は、「宗教は良いものだが、深く入り込むと危険なのではないか」と考えます。また、「信仰は持っても殉教はしたくない」と思うのが自然です。死にたくないという思いは、人間として当然のものです。
しかし、殉教とは単に死ぬことではありません。それは「死に支配されなかった信仰者の姿」を意味します。
「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)とあるように、神の愛によって彼は「死んだら終わり」という世界を超えて生きることができたのです。
2.本文解説
(1)「わたしはよみがえりであり、命である」
イエスはまず、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(11:23)と語られました。イエスがあえて遅れて到着されたのは、ラザロが完全に死ぬのを待つためでした。それは、彼をよみがえらせることによって、死に支配されない神の力を明らかにするためであり、エルサレム入城を前に、ご自身がメシアであることを示すためでもありました。
それに対してマルタは、「終わりの日のよみがえりの時によみがえることは知っています」(11:24)と答えました。彼女は復活を信じていましたが、それはあくまで未来の出来事として理解していたのです。彼女の考えは、「復活は時に結びつくもの」という理解でした。
しかしイエスは、「わたしはよみがえりであり、命である」と語られました。これはマルタの理解を根本から正す言葉です。復活は「いつ起こるか」という問題ではなく、「誰に結びつくか」という問題であることを示されたのです。
(2)「わたしを信じる者は、死んでも生きる」
この言葉は一見すると理解しにくいものです。普通であれば、誰かができることがそのまま自分にもできるとは限りません。しかしイエスの場合は違います。なぜなら、復活が「時」ではなく「方」に結びついているからです。
イエスを信じるとき、私たちの命の性質そのものが変えられます。確かに将来、私たちは新しい体を与えられますが、それだけではありません。信じたその瞬間から、聖霊が内に宿り、命はすでに変えられているのです。
その結果、私たちは「死んでも生きる命」を持つ者となります。
もちろん、感情として死を恐れることはあるかもしれません。しかし決定的に違うのは、もはや死に支配されない存在になったということです。
ラザロの復活は、その事実を私たちに示す出来事でした。
3.適用
(1)私たちは死の支配から解放された
「イエスは…死の力を持つ者を滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷となっていた者たちを解き放つためである」(ヘブル2:14–15)
イエス・キリストによって、私たちの命の性質は変えられました。感情として死を恐れることがあったとしても、もはや死によって失われる命ではありません。
だからこそ私たちは、死に対して堂々と向き合うことができます。なぜなら、私たちの主人は、もはや悪魔でも罪でも死でもなく、神ご自身だからです。
(2)死に縛られない自由を生きる
この救いは、私たちを「死への恐れ」から解放します。
「死んだらどうするのか」「どうせ死ぬのだから」という考えに縛られる必要はありません。死を恐れて我慢したり、諦めたりする人生から解放されるのです。
むしろ、やがて失われるものにも意味を見出し、情熱をもって生きることができるようになります。
(3)「時」に縛られない信仰
クリスマスとは、死の支配から命の支配へと私たちを移す救い主の誕生を祝う日です。
その日付が本当に12月25日であるかどうかは、本質的な問題ではありません。重要なのは、救い主イエス・キリストを受け入れることです。
「もし平和な時代に生まれていたら信仰を守れたのに」と考える人もいます。しかし私たちは「時」によってではなく、「方」によって救われた存在です。
今の時代において救われたのであれば、どの時代にあっても生きることができます。私たちを最終的に支配するのは「神の時」だけなのです。
(4)殉教者の姿を恐れる必要はない
殉教者の姿を見ると、恐れを感じるかもしれません。しかし、クリスマスはその恐れを取り除くためにあります。
イエス・キリストは、死の不安に縛られている私たちのもとに来てくださいました。そして私たちは、すでに死の支配から解放された存在となったのです。
だからこそ私たちは、中浦ジュリアンのように、真に自由な者として生きることができるのです。
4.まとめ
クリスマスは、死を恐れる私たちのもとに、命を与えるためにイエスが来られた日です。
イエスを信じる者は、死んでも終わることはありません。神と共に生きる命が与えられているからです。
だから私たちは、「死んだらどうしよう」と恐れる必要も、「どうせ死ぬのだから」と諦める必要もありません。
むしろ希望をもって、今日という一日を大切に生きることができるのです。この恵みを決して忘れないで歩んでいきましょう。


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